心の冷えとり

悲しき我。エゴの恐れと喜びの利他

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心の冷えとり第一弾、初回は我(が)についてです。エゴと呼んでもいいのですが、我の方がしっくりきますね。

なんでこの整体・ストレッチ・ツボガイドで、心のことを書いていくのかは、自分の心を知ることが一番の健康法だからです。

そもそも東洋医学は、身体と心を分けて考えていないんですね。気もそうです、気というエネルギーが身体と精神活動を働かせていると診ています。

そして、経絡にも感情が関連付けられています。肺経は悲しみの感情とか、腎経は恐れの感情とか、肝経は怒りの感情とかね。

五臓六腑に感情が関連付けられているのは、何となく分かる気もしますね。実際、心配しすぎると胃とかにきますしね。怒りんぼの人は肝臓が悪そうだし(笑)、冷たい人は心臓が悪そうだ。

死んでしまうんではないか位のショック、ストレスで一夜にして髪が白くなるのも、本当かどうか分かりませんが、共感はできますよね。ちなみに髪や爪、骨などは腎経と関連づけられています。腎経が弱ってくると、ここら辺の老化が目立ってきますね。だから東洋医学では腎経を鍛えて、不老不死(若返り・アンチエイジングという意味です)を実現するんですね。

まぁ、東洋医学は、腎臓と肝臓をとても重要視するんですね。生命活動の根幹でもあると診ているし、精神的にも重要な位置づけになっています。

で、我についてですけど、なにも学術的なことを書きたいのではないんです。知ってほしんですね、誰しもが我というものを持っていて、それは人を傷つけてしまう凶器にもなるし、自分が傷つかないようにする「悲しさ」も持ち合わせているということを。


自分がわかるということ

仏教でいう智慧(ちえ)とは自分の心が見えることです。知恵があって自分の心がしっかりと見えたら、失敗しませんよね。失敗というか迷わなくて済みます。

迷いとは煩悩(ぼんのう)といってもいいですね、108つあります(笑)。除夜の鐘で滅するのが煩悩ですけど、実は煩悩は無限なんですね、滅せられるものではない。ただ煩悩に執着しないことはできます。

まぁ、人それぞれに煩悩、迷いは違いますけどね。人それぞれです、業の深さは。

でも、自己への執着というのはみんな共通していますよね。自己生存、自分を保つということ、自分が傷つかないようにすること、自分を守ること、自分が得をすること、これに誰もが執着しています。

いや、我が悪いわけではないんですよ。我に執着しすぎるのがよくないんですね。

そんな我への執着が自分で理解できたら、生きるのが少し楽になると思えませんか?自分が執着しているものが分かったら、それに振り回されないで済みますもんね。


自分の何がわかるのか?

自分の内面を見なさいとか、よく言われますよね。でも自分の中の何を見ればいいのか?ここで人間の成長が分かれますね。

もし自分のいいところしか見なかったら、成長はありません。そして自分が見たくない自分の悪い部分は、他人や世界に投影(投影に関しては後述)されます。自分が悪いのに「あいつが悪いんだ」とか「世界が悪いんだ」とかね。

反対に、自分の至らないところを見ることができたら、その人は成長できますよね。至らないところが自覚できるから精進する。愛が足りないと思うから、愛を持とうと努力するはずです。

自分に愛があると思っている人とは、仲良くなれないですよね、気持ち悪くて。満足したとたんに成長が止まるとも言えますね。


自利(じり)

我とは煩悩と言いましたけど、我・エゴとは、自意識、自分向きの心、自己中心的な心とも言い表せます。「あの人はエゴイストだ」みたいに身勝手という風に使われますね。「我が強い」とかね。

我利我利いや自利自利か。我も自利も仏教用語です。自利とは自分の利益です。自利の心とは自分に利益のなることしか興味のないような心、胸が痛いですよね…。誰でも持っている自分の利益の為なら、少々の他人の犠牲は仕方がないという心。一昔前の、企業のような利益椎順のビジネスライクな心といってもいいですね。

我も煩悩も自利も、誰でも持っているものです。そしてそれらは知らず知らずに、人を傷つけてしまうナイフのようなもの。だから皆に自覚してほしんですね、私達は我という凶器を持っていることに。凶器を持っていることを自覚できればね、無駄に人を傷つけなくて済みます。

反対に我に無自覚だと、知らず知らずに凶器を振り回しているようなもの。精神的に幼い段階ではよくありますよね。年齢ということではないですよ。大人でも老人でも、我に無自覚な人は(自分の影の部分を見れない人)は自分を戒めることができません。意識的に我を理解して人を傷つける人もいますがね、これはこれでたちが悪い…。

人を観察、自分を観察してみると分かりますよね。我が前面に出ている人って。人に優しくないし、自分の目的のためなら、もしくは自分を守るためなら、嘘もつくし、平気で人を裏切りもします。


悲しき我

なんか我について悪いことばかり書いてしまいましたが、我は生きている以上は必要なものなんですね。煩悩もそれなしには生きられません。食への執着がなければ死んでしまいますもんね。生命の持つカルマ・業(これについても後述します)といってもいいですね。我とは自分を守る働きです。我のおかげで私たちは傷つかないように、自分を守るように行動します。

もしこの働きがなかったら個性、アイデンティティー(自己統一性)を守れませんしね、生存すら怪しい。

子供のころ、私たちは我・自意識が発達します。学ぶんですね、自分が傷つかない方法を。もしくは自分を守る方法を。


心のサバイバルモード

我は常に心のサバイバルモードといってもいいかもしれません。精神の生き残り戦略。

私たち人間は社会的な生き物ですから、この生き残り戦略は主に他人に対して働きます。

他人からどう見られたいか、どう見られたら自分が得をするか、どういう態度なら自分を守れるか、無意識的(?)に我は巧みに計算するんですね。

人によっては積極的になることで、明るく振る舞うことで、面白いことをいうやつだと思われたいがために。人によっては消極的な態度で、自分を出さないことで、人に従順に従うことで、自分を守ろうとします。

主に両親との関係性ですが、幼児期の経験、トラウマから我は他人に対する態度、性格、人生の方向性を決めてしまいます。生き残るために…。

これって悲しいですよね。人の心を考えても悲しいし、自分の中の我をみてもとても悲しいです。明るい暗い、積極的消極的とか、性格の相対的なことはどうでもいいんです。その根元にあるモノが悲しいんですね。

でもある精神的成長の段階、自分の我を内観できるようになるまで、我は私たちの人生の方向性を決めてしまいます。

自分の我を意識できるまで、私たちは過去のカルマ、我に振り回されていきます。人によっては一生それで終わるかもしれません。


悲しさ・切なさ

その根元にあるモノが悲しい、と書きましたが、少し自分の我を見つめてください。あなたの一番奥底にある思いは何ですか?

たぶんそれは「理解されたい」という強い願望ではないのでしょうか?

そうですね、我は本当は理解されたいだけなんですね。理解されたいのに理解されないから、反抗期のように悪ぶっているだけなんですね。

わかりにくいですかね?

では、自分が大好きな人にしてもらいたいことは何ですか?肉体関係は除きますね(笑)。

私だったら、自分があなたを好きだということを分かってほしいですね。私の気持ちを理解してほしい。

感情を理解してほしいという思いが、誰の心の奥底にもあるはずです。魂の叫び、我の叫びですね。

これが悲しく切ないんですね。だって一番の思いが満たされていないんですからね。

この悲しさや切なさが実感できるから、仏の慈悲とか神様の愛とかが、実感できるのではないでしょうか?


我と反対の心・利他

そして、我を意識できる内観できる方法が一つあります。それは我とは反対の心を見ることです。

自利の反対は、利他(りた)です。人を利っする心です。利他心ともいいます。ビジネス的に言ったら、最近のwinwinの関係ですね。

何もいい子ちゃんぶるわけではありません。人のためになることをする、というのは自分のため、自利でもあります。

そうですよね、人に優しくして嫌な気分になる人はいません。人の役に立って気持ちよくない人はいませんよね。実は商売の秘訣もここにあるのですが、ご商売ではなくても、我利我利な人より優しい人と仲良くしたいですもんね。

この我とは反対の心を見るということ、これが一番に我を直視できるんですね。反対のものを見ること、実践することでその反対のものが明らかになるんです。私たちは相対的な世界に住んでいますから、物事の両極端を理解することで明らかになる真実というものがあります。

陰と陽、男と女、利他と自利、山と海、猫と犬(笑)。相対的な人間界には、両極端の性質があるんですね。

自利と利他のせめぎあいがあるから、その両方を自覚できるんですね。

例を挙げますと、少し年の離れた二人の子供がいて、大きいほうにお菓子をあげたら、その子供は全部自分のものにしようか、下の子にも分けてあげようか、もしくは全部あげてしまおうか。一瞬悩みますよね。行動の前に、自分の正反対の心の動きがあります。

そりゃ分けてあげるのが人道的に正しいのですが、もしそのお菓子が自分の大好きなものだったら、執着は大きいですよね、葛藤も大きいはずです。

こういう正反対の心を見ることで、我を冷静に見ることができるようになってきます。でも人間って自分の嫌な所は見たくないですからね、あえて見ぬふりをしたりもします。

そうするとどうなるか?

自分の見たくない部分を、他人や世界に投影するんですね。


投影

投影とは心理学の用語です。

投影:

物の姿(=影)を何かの面にうつすこと。その像。

ある物事に他の影響があらわれること。

本当は自分の見たくない部分、影の部分なのに、我はいい子ちゃんで居たいんですね。自分が一番上、自分の統一性を守るために、自分の影の部分を他人や世界に投影し始めます。

自分の嫌な部分を見ずに、他人の悪口を言っていればいいんですからね。我にとっては居心地の良いコンフォートゾーンなのです。

これは集団、民族、国家単位でも起こります。

自分達の民族、国家だってそりゃいろいろやってきたのに、あの国が悪い、あの集団が悪の元凶だ、悪の枢軸国だ、とか人間の歴史と戦争は繰り返されてきました。

今のようなメディア社会になる前からあったと思いますよ。自分の国の問題を他国のせいにすることは。もしくは自国の問題から国民の視線を外すために、他国を悪者に仕立て上げ攻撃するということは、治世の定番でした。

今では、メディアにより明らかに操作されていますよね。自由な情報がありそうなネットだって情報操作までとはいえませんが、検閲がありますしね。

自分を拡大していけば集団、民族、国家ですからね。どの段階でも我という問題は出てきます。個人に我があるように国家レベルでも我があるんですね。

自分も国家も同じ問題を抱えているんですね。我を見切れていなければ争いが起こります。

他人や世界に自らの悪を投影してしまうから、我を内観する、自覚するということが大切なんですね。争いをなくすためにも、人を傷つけないためにもね。


我の抱える恐怖・恐れ

なんかここまで書いてきてなんですけど、改めて我が何を抱えているのか考えてみたら、それは「恐怖」なんですね。恐れ・恐怖があるから我を守ろうとするのです。戦争もそうですよね、他国に襲われるという恐怖(もしくは扇動)があるから先にやってしまえという風になります。悲しき我…。

恐怖・恐れが自分の人生の行動の原因なんてね、本当に悲しいですよね。我の行動の原因が恐れなら、「利他」の行動の原因は「歓び」なんですね。

恐れと歓び、この正反対のものをね、私なんかにうまく説明できるんでしょうか?

でもやってみますね。


歓喜(かんぎ)

仏教でも「歓喜(かんぎ)」という言葉は重要なんですね。仏典にもたくさん出てきます。というか人生の目的、生命の目的、精神の目的は歓喜以外にはない気もしてきましたけどね。

あとヨガでも歓喜に代わる言葉として「スカ」がありますね、これは快楽という意味ですけど、肉体的・精神的快楽どちらも含めます。仏教の歓喜には肉体的快楽は含まれていないイメージがありますよね。あくまで精神的な歓びです。特に日本人は淡白ですしね(笑)。

やはり物事は片方だけでは完結しないんですね。片方を書くならもう片方も詳しく書かないとね。自利と利他、我と梵(ここでは仏様の心くらいに考えてください)西洋と東洋、恐怖と歓喜ね。

これは自分を理解するために必要なんですね。自分とは正反対のものがあるから、自分を把握できるんですね。それが分かるまでは我の言いなりでしか生きられません。だって行動の選択肢がないのですからね、自分を守る・自分が傷つかないようにするにはどうすればいいか?・自分が得をするにはどうすればいいか?くらいしか選択肢がないのです。

これが利他となると、「この人の為に、何ができるのか?」の選択肢が無限にあるんですね。自利と利他では、アナログからデジタルに変化するくらいの選択肢の差があります。目の前が急に白黒からカラーになったような見える世界の変化があります。アナログからハイビジョン、いやもう古いか、アナログから4Kになったような変化があります。

だから利他とは自利なんですね。自分の生きる選択肢が1000倍位に増えるのですから。可能性が広がるといってもいいですね。人のことを思うことで確実に、人生の選択肢、幸せの容量は増えていきます。だから、あらゆる宗教が利他を勧めるんですね。

自分の欲望が満たされる喜びもありますけど、これらには限界があります。人の役に立つ喜びって限界がないんですね。どーも私たちの脳もそういう構造をしているみたいですが。

でもあれか、我の恐れから、利他をする人もいますよね。新興宗教にありがちな。喜びのない形だけの利他。実はそんなに相手のことを思っていないという…。

張り付いたような笑顔だけど、実は目の奥が笑っていない…。怖いですよね。

恐れから行動しているなら、それは我の仕業とも言えますね。一見ポジティブなことをやろうとしているけど、実はそれは恐れから逃れるための行動だったりね。

喜びが行動の原因なら、そこに我はないのかもしれませんね。むしろ喜びを行動の原因としなければなりませんよね、私たちは。





ebisu-seitai
追記していくか、これで終わりか少し考えますね。なにせ心のことは書くことがいっぱいで、思い出迷子(笑)、いや執筆迷子ですね。



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